【お】おもしろの源泉【50音エッセイ】

50音エッセイ

こんにちは、どっふぃーです。

とりあえずア行が終わり何とかこの企画も軌道に乗り始めました。当初は週2本は少ないか?なんて思ってたんですがいざ書いてみると全然少なくない。いつもテーマ選びに悩まされてばかりです。

本を書く人はほんとうに偉大だ…

予定通りいけば50音全部終わるまでに凡そ半年かかるんですが、今が11月だから足し算すると、、、

え、もう11月なの?

つい最近大学生になった気がしていましたがどうやらカレンダーによると早くも11月、年もまさに暮れんとしております。時の流れとは残酷なもので。

まあ過ぎた日々を惜しんでも仕方ないので今日を頑張って生きていきましょう。

年末と言えばみんな大好きあのイベントもありますしね。

〜シンキングタイム〜

〜今年を振り返るタイム〜

〜あれ?洗濯物干しっぱなしだっけ〜

〜まあいっか〜

そう、今年もやってきました。M-1の季節です!

大阪生まれ大阪育ち、18年間大阪一筋の僕からすればM-1を見ないのはもはや人ではない。

もうYoutubeにはM-1 3回戦の動画が続々投稿されていまして、京都と大阪は出揃ったぐらいかなと思います。

京都会場は全て、大阪も途中までは見ましたが個人的なお気に入りはパーティーパーティー、鬼としみちゃむ、華山あたり。まだ見ていない方はぜひ見てみてください。

さて、M-1グランプリは「俺たちが、一番おもしろい」という煽り文句にもあるように、喋り一本で一番面白い人たちを決める大会なわけですが、そもそもここでいう「おもしろい」とは何なんでしょうか。

単純な笑いの量?拍手の数?あるいは松ちゃんのコメント?

どれも完璧に的を得た基準では無さそう、というよりこういった要素を総合的に加味したものということになりそうです。

それもそのはず、M-1グランプリは審査の基準に明確な数値があるわけではないので、勝ち上がってくるコンビも実に様々。

よくお笑いは「緊張と緩和」なんて言われたりしますが、小刻みに小ボケを打ち続けて深く考える前に量で畳み掛けるタイプもいれば、4分間でボケ数4、1ボケ/1分で溜めて溜めて大笑いを掻っ攫うようなタイプもいる、あるいは最初は意味がわからないが進むにつれてだんだんその世界に入り込んでいって最後はもう何を言われても笑ってしまう、といったタイプもおり、大きく見れば緊張と緩和のサイクルだとしても、その中身はまさに十人十色です。

去年のM-1決勝を見ていた方なら、ちょうど令和ロマンとヤーレンズの違いみたいなものを想像してもらえれば分かりやすいでしょう。ヤーレンズの圧倒的手数に対して令和ロマンの単純作業で拍手広がらず。対照的なコンビでありながらどちらもとてつもなく面白かったのでやはりおもしろというのは難しい。

しかしそんな中でも僕は笑いのパラメータとして一つ重要な要素があると思うんですね。

それが「排他的な笑い」「協調的な笑い」

排他的な笑い、とはいわゆるセンス系の笑いのことで、分かると面白い、そんなアイデアがあるのかという意外性から生まれてくるようなもので、みんなが笑えるという類ではないですが刺さる人にはとことん刺さる傾向にあります。

一方で協調的な笑いは駄洒落や言葉遊び、あるいは新喜劇のような予定調和的な笑い、大きな声でのシンプルなツッコミなどがあり、内容を吟味して笑うというよりは空気を良くする、どんな人でも楽しめるという笑いになっています。

とはいえこの2つは二元論ではなくてパラメータ的なもので、お笑い芸人を見ているとどのコンビも分かりやすさとニッチさがうまくブレンドされてお笑いは出来上がっています。そこはさすがプロならではといった技術ですね。

しかし我々素人が双方を兼ね備えた笑いを生み出すというのはなかなか難しいもの。僕たちの生み出す笑いというのは大体どちらかに寄ってしまっています。

さて突然ですが皆さん「言語の排他性」という考えをご存知でしょうか?

言語は人々がコミュニケーションをするためにあるというのは非常に分かりやすいのですが、実は言語の機能というのはそれだけではなく「関係のない人に自分たちの情報を伝えない」というものもあります。

日本語で喋る僕たちは、おそらく殆どのアメリカ人に会話の内容がバレることはない、同様にアラビア語で喋る人たちの会話をいくら聞いても全然僕は理解できない訳ですね。

これが国民意識を形成したり、コミュニティを安全にしたりするんですが、僕はこの考えが「おもしろ」に対しても適用できるんじゃないかなと思うんです。

例えば学校の先生のモノマネを考えてみて欲しいんですが、同じ学校の友達にとって先生のモノマネはすごいウケるものです。特に特徴のある先生は持ちネタとして使う奴が1人や2人はいるもの。

しかし他校の人にとってはどうでしょうか。先生モノマネはそもそも当の先生を知らないわけですから何も面白くありません。変な人間が突然目の前に現れただけ、be confusedでしかない。

これは極端な内輪ネタですが、民間レベルでのお笑いというのはほとんどがこういう排他的な笑いではないでしょうか。

僕の会話をおもいだしてみるとか世界史が好きな友達とは世界史の例えをしたりするし、数学が好きな友達とはなんでも論理的にしてみたり、Twitter廃人とはネットミームで、お笑いファンとは有名なネタのオマージュを使ったりしており、まるで大衆性はなかったですね。

僕はちょっと極端な人間なのであんまり当てにならないんですが、皆さんはどうでしょうか?知り合いとの会話で笑ったポイントは割とマニアックなところだったりするんじゃないかなと僕は睨んでいます。

つまり個人の雑談の笑いというのはこうまとめられましょう。

「普通の人はそんなこと思いつかないけど、私は同じことを理解できてしまう」

これによってある種仲間意識みたいなものを生み出す、これがセンス系お笑いの意外性の正体であり、引いてはお笑いというものの非常に重要な要素なのです。

そして実は「笑いは仲間意識の生成」だという考え方はかなり上手くできていて、なんとこれで新喜劇や有名な1発ギャグ(春日さんのトゥースとか)がいつまでも笑いを取れるのも説明がつくんです。

これらは笑いの境界がより広がっており、あまりに知名度が高いからこそ「僕もそのネタを知ってるし周りのみんなもきっと知っているだろう」という考えが生まれ、「ネタを知っている人」と「知らない人」の間に境界を生み出し知っていることに仲間意識を発生させるんですね。

一方センス系お笑いの生み出す境界は「理解できる人」と「理解できない人」の間にあり、その対象とする範囲が異なっていると言うわけです。

さあ、ここまで聞けば最初に言った「排他的な笑い」と「協調的な笑い」の解像度が大幅に上がってきたのではないでしょうか?

そう、「排他的な笑い」は理解できるかどうかを問う、より壁を狭めるものであり、一方「協調的な笑い」は簡単な内容(例えば日本語の言葉遊びや有名なギャグ)を知っているかを問う、新しい人を受け入れるために壁を広げるものである。

笑いのパラメータは「どこに境界線をひいて内側の人間を仲間にするか」に他ならないのです。

さて、すこし熱く語りすぎてしまいましたが今日の記事はこの辺りでおしまい。僕のブログはかなり狭い境界を引くようなスタンスをとりがちなんですがたまには大衆的お笑いもやっていきたいですね。

ということで次回のテーマは「傘って雨防げてなくない?」

11/15公開です。お楽しみに!