今日は少し、味付けを凝ってみよう。
そうだ、歯磨き粉を切らしていた。
ふと思い出し僕は家を出た。
ドラッグストアまでは意外と距離がある。徒歩10分の道のりは頭のなかではすぐなのだが、いざ歩き出すとこれが思いの外長いものだ。
梅雨の曇り空の中歩き出すと、ちょうど向かいの家の軒先で子供たちが野球をしている。
はいストライクー、アウトー! いや膝より低かっただろ!
三振を取られたらしいバッターの子がプラスチックのバットで必死にボールの軌道を再現している。確かにボール一個分低かったようにも見えたがどうだろうか。
1塁と2塁に居た透明ランナーも必死にボールのジェスチャーで抗議をしているようだ。
子供の頃を思い出し、思わず参加したくなる。昔は僕も暇さえあれば公園に集まっては3人とかしかいないのに意気揚々と野球をしていたものだ。
だが、この巨体ではもはやゴムボールも凶器、道路で必死になる成人男性など不審者そのものである。
もう無邪気に騒ぐことも許されないのか。
気持ちだけでもとバッターの子を密かに心の中で応援しながら歩みを戻した。
明日の予定はなんだっただろうか。もう今日だけで5回は考えた疑問をまた繰り返しながら歩いていく。
espero aspara a don! jo era…
A? espa jo a don le! ma je …
なんだなんだ、今度は意味の分からない言葉が聞こえてくる。聞き耳を立ててみたがどうにも英語やフランス語では無さそうだ。
スペイン語とかの類だろうか。ともかくやたらと語気が強い。絶対喧嘩しているか誰かの悪口を言っているかだ。余計なことには関わりたくない。
怖いので少し距離をとって、道路の端と端とですれ違う作戦でいこう。そう思い近付いてくる外国人たちとなるべく離れるようなコースで歩いていく。
あと数mですれ違う。その辺りで突然彼らの会話が止まった。
なんだ?何があった?
心臓がキュッとなり、反射的に歩調を早める。
頼む、なにも話しかけないでくれ。
すれ違う瞬間、恐る恐る彼らの顔を見ると、外国人たちはこちらに向かって笑顔で微笑みかけていあ。
そりゃそうか。見知らぬ人とすれ違う時には笑顔で接するものか。
下手な恐れを感じていた自分を恥じながら、ぎこちない会釈を返す。これでは僕の方が怪しいではないか、未だ少し早まったままの歩調でずっとその場を立ち退いた。
ああ、明日の予定はなんだったか。
商店街の店たちが見えてくる。誰が買っているのかわからない派手な柄の洋服屋、駅前に3つある歯医者のうちの一つ、前を通るたび食べたいと思うのだが結局まだ買ったことのないケーキ屋…
あれ?こんなところにギャラリーなんてあったのか。
普段なら電車に追われて特に見向きもしていなかったが、ケーキ屋の横に小さなドアがあり、階段から2階のスペースに繋がっているようなのだ。
特に急いでいることもない。クーラーを借りるついでに少し覗いてみるか。
入ってみるとそこには菖蒲をテーマにした幾つかの絵が並んでいた。淡い水彩で描かれたものが多いが、時たま濃淡をはっきり描いた力強い作品もある。
説明を見たところ近所の絵画教室の生徒たちの作品を飾っているらしい。
菖蒲か。
絵などまるで描けやしないが少し専門家気取りになって絵を見比べてみる。
この絵は葉の表現はいいけれども花が背景と同化してしまってぼやけているな。この絵は構図が少し歪んで見える。この絵は…
一通り品定めをし終え、何かすごいことをした気分でギャラリーを後にする。これだけ批評をしているとなんだか僕にも描けるような気がしてきた。家に色鉛筆はあったか、あるいは今ならデジタルで無料のアプリがあるかもしれない。
テーマはもう菖蒲といった感じの季節じゃないだろう、紫陽花なんかがいいんじゃないか、花びらをいっぱい重ねて書いていけばそれっぽくなるか。
思索を巡らせていると、ちょうど目の前に駅前のパン屋が出てきた。
そういえば昼ごはんを食べていないな。お腹が空いているしカレーパンを買って帰ろう。カレーパンなど美味しいものと相場が決まっているのだが、例に漏れずここのパン屋のカレーパンは美味い。
しかし晩ご飯はどうしよう。家にあるのは半分残ったもやしと冷凍した豚こま肉ぐらいか。
妥当に行くなら中華といったところ。けれども別に冷凍の豚肉を急いで使う理由も無いしな。
とりあえずスーパーに入って考えるか。ちょっといい肉なんか買ってステーキというのも悪く無い。
スマホの時計を見る。
明日の予定はなんだったか、よく分からないが今日は早めに寝よう。
美味しいご飯を食べて早く寝るのがいい生活というものだ。