加速

雑記

東京は梅雨に入った。

大学生の一人暮らしに計画というものはない。食べたい時に食べ、寝たい時に寝る、太陽が時計であり、スマートフォンが友達だ。

そんな僕にとって、雨はかなりの大敵である。特に6月の梅雨はだ。

まず洗濯物が干せない。洗濯というのはしたくなった時にすればいい訳ではない。着る服がないようでは話にならないため、定期的に行う必要があるのだ。

僕はおおよそ3日に一度程度洗濯機を回すことを目安としているのだが、梅雨の時期はこれがうまく行かない。外を見ればいつも雨、生乾きになるのは目に見えている。

じゃあ晴れの日を確認して洗濯をすれば良い、のだが一人暮らしは自分にしか責任がないためどうにも自律心が緩みサボりがちである、そして気がついたらいつまでも洗えなくなっているのだ。

さらに6月は太陽が仕事をしていない。昼は曇りか雨しかないため太陽はお休み、夜はもとからお休み、毎日が全休である。

おまけに、流石に太陽も危機感を覚えたのか知らないが、珍しく晴れている日はここぞとばかりに5時とかから出てくるのだ。

このせいで、僕の生活サイクルはめちゃくちゃになってしまった。

太陽よ、3月の自分を見返してはくれないだろうか、毎日コンスタントに6時出勤だったではないか。

ともかく、雨というのはなかなか恐ろしいものである。

雨粒という独立した形で落ちてきているのだが、一度地面につくと絶え間なく世界全体を濡らしてしまう。

考えてみれば雨を避けるのは光を避けるのとは桁違いの難易度だ。壁一枚で防げる光に対し、雨は生半可な屋根では横から振り込んでできたり、斜面を流れてきたり、地面を浸透してきたりとあらゆる手段で入り込んでくる。

僕はいつも傘をさして雨から身を守ろうとしているが、思い返すと足元を濡らさず雨を切り抜けられたことなどないような気がする。

形を変えてあらゆる場所に入り込んでくるという性質、柔よく剛を制すとはいったものだが、水はまさにこの言葉を体現しているといえよう。

さて、為す術もなく仕方なしに屋根の下に籠って雨の襲来を耐え忍んでいる今日日、もう一つ同じように僕に襲いかかってくるものがある。

それが「情報」だ。

情報は雨よりはるかに厄介で、なんと屋根を持ってしても防げない。InstagramにTwitter、Line、Slack、Discord、Googleを始めとする検索エンジン、そしてChatgptなどのAI、現代社会は情報と共にある。そして、驚くべきことに

情報は、時間的にも、空間的にも、あらゆる場所に入り込んでくる。

このように書くと、「いつでもどこでも情報が手に入る」といった、インターネットとスマートフォンの凄さを語っただけのように見えるのだが、実際にはそう単純な話ではない。

情報というものが持つ性質がそのようにできているのだ。

ここで少し思い出話をさせて欲しい。

子供の頃、毎年親戚が集まって夏に和歌山の白浜に旅行に行くイベントがあった。

当時の僕はまだ幼稚園児とか小学生とかで、遠くに出かける機会なんてものはそう多くなかったため、夏休みが来るたび胸を躍らせていたものである。

さて普段はあまり使うことのないリュックを出してきて、何を入れればいいのかも分からないまま荷造りを行い、次の日ちゃんと起きれるか不安になりながらベッドに入り、迎えた旅行当日。大体あたふたして30分遅れでさあ出発だ。

僕の実家は大阪にあるので、行程としては高速に乗って紀ノ川サービスエリアというところで一度休憩をとるのが恒例となっていた。

そしてこの紀ノ川サービスエリアのパン屋に売っているコーヒーランドというパンがとても美味しいのだ。もはや白浜よりこちらがメインイベントといってもいいほどこのパンを楽しみにしており、1時間程度で着くはずの紀ノ川SAがまあ遠いこと遠いこと。

何故だか知らないが車の中でパンを食べるというのに当時はすごい特別感を感じていて、もううきうきで食べていたのを覚えている。

そしてここからさらに1時間強のドライブを経て白浜に着くのだが、もう着いた時には一仕事終えた気分で、さながらエベレストの山頂に辿り着いた探検家のような達成感を持っていたものだ。

ところが今はどうだろう。大学までの通学時間40分はもはや「無」である。なんの感情も抱きやしない。勿論通学と旅行は違うが、旅行に行くにしても移動時間の1時間や2時間で胸の昂り、ましてや達成感を覚えるなどといったことは滅多になくなってしまったような気がする。

年を経るにつれて時間の感覚が短くなっていくということは間違いないだろうが、それにしたってあまりに移動時間というものに対しての感想が出てこなくなっている。

しかし不思議なのは移動時間の「密度」自体は今の方が高いであろうということだ。

小学生が旅行中の車の中でできることなんて外を眺めるぐらいしかない。ゲーム機を手に入れた後はゲームをしていたような気もするが、それにしたって持ってきたソフトしか出来ない。

対して今はどうだろう。SNSは眺められる、スマホゲームはできる、本だってKindleでも使えば持っていないものも読める、気になったことがあればすぐに調べられる、動画を見ることもできる。このブログだって時には電車の中で執筆されているのだ。

明らかに移動時間に込められた可能性というものが広がっているのだ。

ここで重要なのは、別に外の景色を見ることは今も全く否定されていない。時代はSwitch2に移り変わったが、ゲームだって出来る、黙想をしたっていい。

既存のアクティビティで失われたものは全くないのである。

にもかかわらず感じられるこの移動時間の虚無感は何なのだろうか。あの昂りと共にあった移動はどこに消えてしまったのだろうか。

その答えは、情報の持つ根本的な性質、

「再現性」

にある。

僕たちはもはや固有の人生を生きる生き物では無くなってしまっている。あらゆる行動を何かしらの再現によって行っているのだ。

例えばSNSは誰かの生活の再現である。これまで一回きりの行為で、個々で記憶のフォルダに保存するしかなかった生活が、今ではサーバーに保存されている。

私は今日こんなことをした、あの子はこんなことをしている、あの有名人はこんなことを…投稿を通じて僕たちの頭の中に、様々な人の人生が不完全な形ではありながらも大量に再現されるのだ。

検索エンジンは知識の再現である。先人が残した知識へと容易にアクセスすることができ、新しい知識体系が受け入れられる余地はもうそこにはない。受け入れられるのは既存の体系に則った知識のみであり、正しさは明確に定義される。

検索窓に言葉を入力し、一番上に出てくるもの、それが正しさである。

そして、生成AIは思考の再現である。

大量のデータから確からしい結論を抽出することを僕たちの思考と同一視していいかは当然議論されるべきだろうが、この情報社会における僕たちの思考に関して言えば、やっていることは全く同じだと思う。

今求められる思考力は現実を見てうまく説明できるような理論を作る力などではなく、人々の集う正しさを見つけ出す力、言い換えれば検索結果上位を得る力、再生数を回す力である。

既存の情報に浸かっている人を前提として欲しがっている情報を提示するのが思考であるとするならば、ビッグデータから最も確からしいものを推定するというAIの仕組みはまさに人間そのものだろう。

さて、このように情報は再現する行為に他ならないわけだが、ここに大きな問題がある。

それが「再現性と期待感の矛盾」だ。

再現性が高いということは、結果に対する予測が初めからついてしまっている。100%誰でも出来ることに価値が見出されることはないし、期待を超えることも結果が分かっている以上無い。

例え成功した例がそこにあり、それを再現するとしても、その結果得られる成功への期待感というのは元のものに比べ著しく減衰してしまう。

簡単な例を出すならば、「こうすれば東大に受かる」と謳っている教材や授業を受けて勉強をすることを考えてみて欲しい。この時合格がデフォルトの状態でありそこには安心感はあれど合格という未知の状態への期待感などはまるで無いのだ。

(もちろんこれは合格した後の生活への期待感が無くなるといった話ではない、まあTwitterで東大生の生活があまりに見えすぎてしまう以上それも無いかもしれないが)

このように想像しうるものに希望を持つのは非常に難しい。現代病とも言える未来への期待感の無さはここから来ているのだろうと思う。

何をしようにもとりあえず検索してノウハウを調べてみる、やってみた人のSNSアカウントを見てみる、なんてことをしないといけないようでは漠然とした期待など持てるはずがない。

かくいう僕も最近新しいバイトでもしようかと思ったら何を調べてもすぐに悪い口コミが出てくるもので嫌になってしまった。

絵を描くのも好きなのだが上手い絵師さんの絵が沢山流れてくるせいでモチベーションが削がれ気味である。

留学なんかにも興味があるが、すぐにプログラムの詳細、行った人の感想、ここが良かったここが悪かったといった動画や投稿、などなどの情報が出てくるせいでもう楽しみな要素が全然出てこない。映画のネタバレを丸一本分食らったような感じだ。

もちろん情報が全てではなく、実際にやってみると新たな発見や喜びがあることも少なくない、というか必ずあるのだが、やはり意識の面で情報に侵食されている感じは否めないなと思う。

あらゆる時間、空間が何かの再現をする場所になってしまっている社会では、空白の時間は許されない。常に何かをしている状態とみなされ、その行為についての判定が行われる。

先ほどの話について言えば、旅行先への期待感を膨らませるはずだった移動時間は、「ただ景色を眺めている状態」と定義され、それに対して無駄であるとか、いや自然に触れるだけの時間が重要なのだとか、よくわからない議論が展開される。

同じように移動をした人を参照し、その人は何をしていたか、うまくいった行為とは何かを確認するのが情報社会である。

元々そこには是非を判定される行為は何もなかったのだ。移動時間の価値の有無が変わったのではない。何かが起こるための空白の時間が許されなくなり、すでにある行為の再現として考えることしかできなくなってしまった結果、価値の低い行為が大量に生まれてしまったのだ。

今、僕は僕の人生を生きられていない。何をしても誰かの後追いとして判断される、僕自身もしてしまう。もっと「何も考えていない状態」を許す生き方はできないのだろうか。

最後になるが僕は今の社会のテーマを「回転」と考えている。

サステナビリティが賛美され出してもう何年が経つだろう。新しいものへの欲求よりもむしろ今をいかに良く繰り返すかが問題とされているような感覚を受けるのは僕だけだろうか。

情報は再現である。即ち新しいことをやるのは情報社会においては無価値となる。

では同じことを繰り返し続けられるのか。否、期待感を全く失った出来レースに僕たちが耐えられるとは到底思えない。

ならば与えられた選択肢はただ一つ、

より良い再現があることを期待し、より多くの情報を摂取し続けること

なのだ。

結果としてこの社会は加速しながら同じことを繰り返し続ける。回り出した車輪はもう止められない。

雑記

Posted by doffy