モザイク
つくづく僕は嫌な人間だ。
〜夢を描く。必要なものは何か?今持っているものは何か?〜
〜ドアは開く。扉の先はあまりに明るい、眩しさに目が眩む〜
ああ、また寝られないな。
藁にも縋る思いで枕元のスマホを手に取った。僕と世界との間には充電コード一本。僕を辛うじて壁へと繋ぎ止めてくれている。
途中で再生が止められた動画が目に入る。Vtuberの切り抜き動画、今日の阪神タイガースの結果、世界史系ゆっくり実況…
続きを少し再生してみたもののすぐに気持ち悪さがやってきた。
情報はインスタントだ。お湯を入れて3分どころかクリックして0秒で目に入ってくる。ただでさえ毎日を消化するのに苦戦しているのだ。無制限に入り込んでくる人々の営みは少々荷が重過ぎる。
僕はあまり人とのコミュニケーションが得意ではない。特に人数が多い場に行くと、おおよそ次の日は寝込んでしまう。
ところがそんな甘えたことを言っていては生きていけないのでうまく隠していくことになる。うまく、うまく…
そうやっていくらか自分を偽って過ごしている。おそらくみんなも、いやみんなではないかもしれないけれど、少しは同じことを思っているはずだ。
モザイク
コミュニケーション、それは世界にモザイクをかけるような行為だと思う。
他の人と関わる時、自分が考えていることと相手が考えていることは当然違う。はっきり自分の理想を実現しようと思えば相手とのすれ違いが生まれてしまうのは避けられない。それを阻止するために、不必要な細部をそぎ落とし、大体のイメージだけを共有する、モザイク画像の一部分を切り取ることが必要なんだ。
といってもよく分からないかもしれないので、少し具体例を出してみる。
例えば僕は大人数が集まって同じことをするイベント(お祭りや合宿やら)が得意ではない。
本当に誤解しないで欲しいのが、得意でないだけで「嫌い」とか「つまらない」とかそういうわけではないんだ。
じゃあ何が苦手なんだって話だけれど、それは「とりあえず笑う」こと。
お祭りは全体の雰囲気が大切だ、細かいことを気にするんじゃなくみんなが同じ空間で同じ空気感を共有して盛り上げていくことで初めて完成する。
どこが楽しいということを考える前にまずその場に乗って楽しもうという空気、まさに「とりあえず笑う」ことが大事なんだ。
これがどうにも僕と相性が悪い。
というのも僕の心の中には常に「すごくいい状態」が描かれていて、それを実現したいなと思っている。
けれども人が多くなればなるほどその理想的な状態が実現されることはほとんどなくなっていく。一人なら僕一人が頑張れば理想に近づける、二人でも自分と相手との対話である程度は近づける、だけれど3、4と増えていくとどんどん必要な要素が増えていって手に負えなくなってしまう。
その結果いまいち波に乗り切れない、思ってたのと違う、ということになってしまうんだ。
一言で言えば「完璧主義者」、理想的な状態に近づかないとうまく笑えない。
笑ってないから、テンションが低いからといって、嫌いだったり馬鹿にしている訳では決してないのだけれど、やっぱり側から見ればあまり心象の良いものではないだろうなと思う。
そこでどうにか治せないかと考えたところ、僕たちはみんな世界にモザイクをかけているんじゃないかと考え至った訳だ。
お祭りにおいて、気になるポイントはいっぱいある。「フランクフルトに500円は見合っているか」「他のお祭りと比べて規模が小さくないか」「歩いている人をよく見ると笑っている人ばかりではないのではないか」
そして良いポイントももちろん沢山ある「外で食べるホットスナックは美味し過ぎる」「老若男女が同じステージに立ってイベントを見たり参加したりしている」「笑っている人も沢山いる」
だがこうした一つ一つのポイントを確認し検討するなんてことをお祭りの参加者はしていない。言ってしまえばこう言った行為はあまりに解像度が高過ぎる。良いところも見つかるが悪いところも見つかってしまい純粋に雰囲気に乗り切れなくなってしまうからだ。
じゃあどうするかというと、もっと大雑把に見る、解像度を落としてモザイクをかける。お祭りの屋台、イベント、それぞれにスポットライトを当てれば良し悪しあるけれど、お祭り全体としてひっくるめてみればなんか良い感じじゃない?と見る。こうすることで全てを肯定的に捉えることができるのである。
これは何もお祭りに限った話ではない。他人とコミュニケーションをする際には常にこのモザイク化が付き纏っていて、自分と異なっているところの解像度をうまく下げることで円滑な意思疎通が可能になっているのだと思う。
求:個性のトリセツ
大学に入って1年と半年が経ったが、自分の扱いというのがどんどん下手になっている気がする。
というよりも環境の変化の大きさに適応が追いついていない感じだろうか。
最近もライブで上手く輪に馴染めず全然笑えなかったり、連絡をしばらく返せなくなったり、逆に突然すごいウキウキで感想を語り出したり、後から思い返すと酷い立ち回りをしていた。ほんともう壁の隅に小さくなって消えてしまいたい。
じゃあ改善しろよという話なのだけれど、欠点というのは同時に長所でもあるもので、そう易々と捨ててしまってはそれこそ無味乾燥な人間になってしまうような気がして踏み出せないでいる。
完璧主義であることも、治したいなと思っている一方で、この性格に助けられてきたことも数知れずあるのだ。
実際東大に入れたのも理想を見る力が高かったおかげであろう。文章を書くことだって、うまく書けないと気が済まない面倒な性格ゆえにここまで続いていると言える。
人よりも悪いところをいっぱい見てしまう分、良いところもよりはっきりと見えているんじゃないかと思っている
これが難しい。本当に悩ましい。都合よく時と場合によって変えられれば良いのだが生来の性格はそんな簡単に切り替えられはしないし、上手く付き合っていくしかないんだろう。
本当にありがたいことに、今までのところ周囲の人たちに恵まれていて、こだわりが強すぎたり逆に無関心すぎたりする僕に愛想をつかすこともなくそれなりに仲良くしていただいているが、これが社会に出ていくとなったときに同じように通用するか、僕は心配でならない。
どうすれば良いんだろう。
情報の過剰摂取
何かと考えすぎてしまう僕には、たびたび情報が入ってきすぎてノックダウンしてしまうことがある。
特に他の人の生活の様子を知るのがとにかく苦手だ。
旅行に行ってきたみたいな話を聞くだけでも、誰と行ったのか、お金はどれくらいかかったのか、その時間とお金を手にいれるためにどんな予定を組んでいたのか、現地の人はどんな感じだったか、行き先、宿はどうやって選んだか、予定通りに行かなかったときにどういう選択をしたか…
そういったことが一気に想像で流れ込んで来てしまう。まるで自分がその人の人生を少し借りて過ごしたかのようなそういう気分になる。だからとにかく疲れてしまうんだ。
まだ旅行のように一時的で楽しいイベントならいいけれど、スポーツの大会の話なんかを聞くと、その裏にあった練習、遅くなる帰り、晩御飯はどうする、服は汚れているし明日の朝も早い…みたいな連想ゲームが始まってしまいいよいよしんどいし、金欠とか寝不足みたいなマイナスの状態を知るとすごく辛くなってしまう。
どう見たって考えすぎだし、だいたい想像だから事実に反するところも多々あり、他人の人生そんな考えたって得るものはあまりないのだからやめるべきだとは思うのだが、癖みたいなものでなかなか止めるのは難しい。
こうした性格が今のSNS社会と噛み合いが悪く、連絡が来すぎて思考が止まる、一つのツイートで1時間ぐらい病む、みたいなことがよく起こってしまうんだ。
対面で人と会う時はそれなりに心の準備をしていくので大丈夫だったりするものの、オンラインでのコミュニケーションは本当に苦手でいつまでも慣れない。
許してくださいみんな。
プライド
スマホから出るブルーライトにも疲れてきた、相変わらず眠くはないが寝るぐらいしかやりたいこともない。
つくづく僕は嫌な人間だ。
だが僕は結局のところそんな自分が相当好きなのだろう。悩み、変えようとはするものの、現に変わっていないのだから。
しょうもないプライドか、高潔な自尊心か。どうなっていくのかは明日が決めることだ。
残念ながら未来のことを考えるほどの余裕を今は持ち合わせていない。
〜夢を描く。今日の夢を〜