翼の生えた人類

雑記

空を飛んでみたい。

誰しもが一度は思ったことがあるだろうこの願い。古来から空を飛ぶというのは人類の夢であり、人々の想像力を掻き立ててきた。

教科書にも載るほどの名曲「翼をください」において、「今 私の 願い事が 叶うならば 翼が欲しい」「この大空に 翼を広げ 飛んで行きたいよ」という歌詞がある。日本国民なら知らない人はいないと言えるほどの歌であるが、この歌が万人に受け入れられたのは、人の空への想いを実にうまく表した歌詞を持っているからではないだろうか。

古来、飛行機もなければ人工衛星もない、Google Earthなどもちろんない時代であっても、人類の頭上には空があり、空を飛ぶ鳥もまた存在していた。

いくら手を振っても足をばたつかせても人には飛ぶことのできない空。けれどもそこには実際に飛んでいる鳥がいるのである。

人の体では不可能だとしても、もし万が一翼が生えたとすれば、我々も空を飛ぶことができるかもしれない。

あり得ないとは思うが、明日目が覚めると突然翼が生えていて、空を飛び回ることができなら、どれほど気持ちいいだろうか、見える景色はどのようなものだろうか。そのようなことに思いを馳せ、夢を見続ける、こうした人間の気持ちを美しく表現したのが、「翼をください」という曲なのである。

今日、人間は飛行機を手に入れ、ロケットを手に入れ、人工衛星を手に入れ、空のみならず宇宙に出ていくことまで可能になった。

一見私たちは簡単に空へと繰り出す手段を手に入れ、夢を叶えたかのように見える。

しかし、これらの出現により、人間の空への想いに終止符が打たれたのだろうか?

そうではないだろう。今も子供達は空を飛びたいと思い続けているし、大人になっても、スカイダイビングや気球に多くの人は心踊らされている。

これらのことからわかるのは、人間の「空を飛ぶ」という欲求は、決して「飛行機で高いところから景色を眺める」ことによって全て満たされるものではないということだ。

普段私たちを地面に縛り付けている重力から自らを解放し、どこにでも行きたいところにいける、こうした「束縛からの解放」によって得られる自由を大空への飛行に人々は求めているのである。

「束縛からの解放」というのは何も重力に限られた話ではない。普段我々を縛り付けている住んでいる場所、学校や職場などの社会的地位、1日にたったの24時間しか与えられない時間、止むことのない欲求、そのようなものも、もし空を飛んで遙か上から世界を眺めることができれば何か変わるのかもしれない。

嫌な上司を上空から見下せたら気持ちいいだろうし、いつでも好きな時に好きな場所へ飛んでいくことができたら世界は発見に満ち溢れているだろう。「翼さえあれば自分は幸せになれる」と人々は思い込み空への夢を持ち続けてきたのだ。

こうして考えると、「空を飛ぶ」という願いを満たすのに、本当に空を飛ぶ必要はないかのように思われる。

別に翼なんか生えなくとも、金のなる木があれば、今の時代飛行機で空を好きなように飛べるし、欲しいものを買うことができる。

そうでなくても我々を縛っている数々の制約を解放してくれる存在があれば、空を飛ばなくとも空を飛んでいるような気持ちになれるのである。

では、今私たちを束縛しているものとは具体的になんなのだろうか?何が満たされれば私たちは解放されたと感じられるのだろうか?

もちろん上にあげた社会的地位や地理的要因、時間的束縛なども一つではある、ただこれらが思うままになった時、本当に人は解放されるのだろうか?

私はそうは思わない。自由になった時に何をするのかと言われてすぐに答えられる人がどれほどいるのか、理想の生活をすらすら答えられる人はどれほどいるのか。

おそらく多くの人はそううまく答えられないだろう。それもそのはず人間は自分の持っていないものを想像するのは難しい。ましてや理想的な姿になった自分などという抽象的なことを考えられるのはほんの一握りの人のみである。

多くの人は現実に完全に満足することはないが、具体的に何が満たされれば満足するのかを答えられない。

ここに人が空を飛びたいと思う理由がある。

もし具体的に達成可能な夢であれば、大抵そこには先駆者がおり、どのような努力が必要か、得られる未来はどのようなものかがおおよそ予想できてしまう。

しかし空を飛ぶという行為は、少なくとも道具なしでは全ての人に不可能な行為であり、その結果何が起こるのかが全くわからない。

この非現実性こそが、無限の可能性を感じさせ、具体的な目標や夢のない人にも夢を見せてくれるのだ。

人間の可能性を引き出してきたのは、いつだって非現実的なことだった。遠く離れた人と実際に会わずに繋がることができたり、東京から大阪へ2時間半で行けたり、自ら学習して質問に答えるAIができたり…

インターネットや電子機器のない時代には全く想像もつかなかっただろうことを、今我々は成し得ているのである。

少しでも高い給料を得たい、成績が良くなりたい、スポーツが得意になりたい、良い人と出会いたい、そうした努力をすることももちろん重要なことではある。

しかし現実的に達成可能な目標を立て、それに向かって取り組む、これだけではどう頑張っても先にいる人の二番煎じにしかなれないだろうし、完全に満足する姿にもなり得ない。

様々な社会的制約、時間的制約、金銭的制約のもと行動を決めなければいけない以上、自分の能力を鑑みて物事を考えるのは至って自然なことであり、その結果制約が煩わしく思うこともあるに違いない。

ただそれは種々の制約の中で考えているからであり、実際にそれらの制約、例えばお金が足りないといったことが解決された時に、何ができるようになるのだろうか。多くの場合1つの問題が解決された後に生まれるのはまた新しい問題であり、ひたすら対処を続けるだけでは幸せになることはないだろう。

むしろ束縛なんて無視したあまりにも現実離れしたことを考え、明らかに不可能なことをできる未来を想像してみる方が、実際には達成されていないにせよ人は希望に満ち溢れた生活を送れるように思われる。

最近では大谷翔平選手の活躍が目覚ましいが、彼のやっていることはこれまでに前例のなかった全く新しいことである。

子供の頃から二刀流でメジャーの地に立つことを大谷選手が現実的な目標として捉えていたのかは僕にはわからないが、少なくとも周りの人は絵空事と考えたに違いない。

しかし我々は実際に見せられてしまったのだ。投手として、打者として、超一流のプレイをする姿を。

勿論それまでの過程で並一通りでない努力があったこと、良き周囲の人に恵まれたこと、飛び抜けた才能を持っていたことなどを否定することはできない。

ただ私は大谷選手の最も凄かった点は、あり得ないことをあり得ないと思わずにトライし続けたことであると考える。そして読者の中にも同じように考える人は少なくないだろう。

今の自分を見つめ、問題点を洗い出し、改善を図ることは基本であり成長の鍵である。ただしそれだけでは生まれるのはただの優等生であり、真に満たされるためにはあり得ない夢を持ち続けることが必要なのではないか。

それこそ翼を生やして空を飛ぶにはどうすればいいか、そんなことを考える人が、希望に溢れ、世界へ羽ばたく人材となるのではないだろうか。

雑記

Posted by doffy